からだを知る―日本の身体観と仏教   
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からだを知る―日本の身体観と仏教   

2018年10月13日(土)12:57 PM
これは、平成三年一月二十日に、NHK教育テレビの「こころの時代」で放映されたものです。
解剖学者 養老孟 司 さんと仏教学者 奈 良康 明さんの対談です。
 

養老:  そうですね。「死が遠くなった」というのは、確かにそうだと思うんですね。それが大変よく出ておりますのは、私どもの解剖という仕事と言いますか、職業、作業と言いますか、そういう中にも現れているように思います。第一に、私たちは、我々の方では「ご遺体」と言っていますけれども―死体ですね、分かり易く言いますと。そういうものを扱うわけです。ところが、「解剖」と言いますと、みなさんのイメージというのは、台の上に人体があって、それをバラバラにしていくという、そこのイメージだと思うんですが、ごく社会の中で具体的にお考え頂くとすぐわかるんですけれども、亡くなられた方を解剖台に載せるまで、いろんな手続きがあるわけですね。大体「それはどういう人ですか?」という質問が先ずありますが、これはご本人の意志で、「そういうことに使ってください」と。こういう方は、亡くなられた後のことを、体のことを考えておられるわけですが、「使ってください」ということで、ご本人が私と亡くなられた時に連絡することはできませんから、必ずどなたかが、「亡くなった」という連絡をくださる。今度はそれを我々の方で引き取りに行くわけです。ですからお棺に入れるとか、それを運ぶとか、そういうところから始まって、大学へ持ってきまして、いろんな操作をして、そして解剖に適する状態にして、適当な時期にそれを出して、そしてまあ我々の場合ですと、主として教育用ですと、学生に解剖をやらせる。それに実際には全部終わるまで二乃至三ヶ月かかる。終わりますと、今度は残りをお棺に納めて、そしてそれを火葬場に持って行って、焼いてお骨にして、そしてお骨になれば、今度は遺族にお返ししなければなりませんから、しばしば場合によっては、お返しするところまで、つまりお宅まで伺うと。そこまで全部含めて考えていきますと、大体私どものやっていることの全体がご理解頂けるんじゃないかと思うわけですね。そして、じゃ昔と今と違ってきたかと言いますと、一つは、そういうふうな亡くなられた方のご遺体というのが、「ご本人の意志でこられている」ということがあります。そういうことが一つありますが、ただそういうふうな作業をやっておりますと、いろんなトラブルが起きるわけですね。その中の一つが、一番典型的にあるのが、そういった亡くなられた方を扱う時に、「物として扱うんじゃないか」という意見が必ず出てきてまいります。
 
奈良:  まあ一般的にはそういう考え方が出ますですね。
 
養老:  ところがこれをよく考えてみると、返事に困る問題なんですね。常識的には、これは「生きている方と同じように扱え」と、そういう意味だと思います。しかし表現が非常に変わってくる。つまり物として扱うことが非礼になる、と言いますかね。で、そこから私どもは、そういう作業なものですから、トラブルがしょっちゅう起こるわけで、いろいろ考えさせられる。そうすると、一体一般の人が考えている―あるいは我々と言っていいんですけども―考えている死体なら死体というものの意味と言いますかね、一体なんだ、と。これをどう思っているんだろう、ということですね。そういうことから、私は、身体というのを考えざるを得なくなった。それでどう思っているか、ということなんですが、よく「物」とおっしゃいますが、その「物」の裏側にあるのは「人」ですね。ですから「物」と「人」とが、日本人の考え方の中では、いわば対応関係におかれていまして、どっかから人で、どっかから物なんですね。だけども、これはよく考えるとわからなくなる。簡単な話ですが、例えば私の腕を切って、ここに置くということ―実際にできるんですけど、やりませんけど、そういうことは(笑い)。それで机の上に置いた腕というのは、「物か」「人間か」「私か」「なんか別なものか」というと、おそらくどなたも返事できないんですね。
 
奈良:  ええ。常識にいうと、あんまりそういう発想がございませんですね、普通には。
 
養老:  そうなんです。ところが、私どもがやっていることは、そういうことなんですね。そうすると、嫌でも一体「体は何だ」と。それから発展して、「私とは何だ」。それから亡くなった時に、「心が抜ける」という考え方をするわけですが、「心とは何だろう」と。今度、体の方からと申し上げていたのはそういう意味なんですね、私どもの方で。
 
奈良:  なるほど。解剖学というのは、先ほど先生がおっしゃったように、単にメスを持って解剖をするということだけじゃなくて、その前後を入れると、やはり一つの死にも関わり、生にも関わり、一つの非常に広い分野の文化として、さまざまな問題を提起してくるわけですわね。
 
養老:  例えば、お骨になった時に、それを持って故郷へお届けするということがあるわけですね。お骨を持っている間、何を考えるか、というのを想像して頂くとわかると思うんですが、生前生きておられる間は何の関係もなかった。その方のお骨を膝に載せて電車に乗っていますと、非常に不思議な感じがあるんですね。これ「袖触れ合うも多少の縁」という、まさにどこでこの方と縁があったんだろう、というふうな、そういうものは、多分仏教なんかで昔からあるような、笠に「同行二人」と書いてあるというような感じと非常に似ている。
 
奈良:  なるほど。そうですか。よく普通に聞く言葉が、例えば手術をして亡くなられた。もうさんざん針やらメスが入ったから、亡くなっちゃって、「これ以上またメスが入るのは可哀想だから」と言って、「解剖は嫌だ」という、そういう場合には、やはり物としてはとても見ていないわけでしょうしね。今お話のような形で、この死と生との間というものが非常に微妙な関係を持ってくるわけですね。
 
養老:  今ちょっと「切り取って机の上に載ったものは何だ」と。「腕か、人間か」なんかと言いましたけれども、要するにそういう問題がわからなくなるというのは、実は最初におっっしゃった「日本人が割合に死の問題を遠ざけている」ということ。それから特に「死体―体の問題をさらに遠ざけている」ということと関連があるような気がしますね。それで、そういうふうに言いますと、「日本人」と頭に付けた言い方は非常に一般に多いわけですね、「日本人だ」と。ところが、「日本人とは何か」と考えるとずっと遡るわけですね。昔から我々そう考えてきたのか、というふうに思って、日本の歴史をどうしてもみたくなるわけです。
 
奈良:  先生、それ面白うございますね。いろいろ伺いたいと思うんですけれども。例えば、私などは、「死が非常に遠くなった文化」というのを、非常につい最近の感覚のような形で受け止めるんで、例えば前はみんな自宅で亡くなったわけですけれども、最近はみんな病院で亡くなる。そうすると、特に子どもたちの目に、人が一人死んでいくということの恐さとか、重さというものが、なかなか身近に見れない。こんなことも一つの原因かな、などとも思ったりもするんですが、そうした現在の世相というだけじゃなくって、日本人のものの考え方の歴史の中に、死とか、死体というものを、どっか遠ざけてくるものが、やっぱり歴史的に一つあるわけですね。
 
養老:  私は、それが多分「遠ざける考え方」と、それから「親しく考える考え方」と必ず二つあった、と思うんですね。そしてそれが時代によって、どちらが表面に出るか、というのが違ってきます。その表面に出たものが、一見支配的な考え方になりますが、それじゃ死体を遠ざける考え方というのはいつ頃からか、と言いますと、私は江戸の初めだろう、と。江戸時代が始まった時から、ほぼ死体というものが遠ざけられていくんだろう、と。
 
奈良:  現代の死という、あるいは死体というものを、とにかく避けていくという考え方は、江戸期ぐらいから、という。
 
養老:  江戸期ぐらいから強くなってきたんだろう、と思うんです。それがずっときまして、明治から今度第二次大戦までに、戦争が何度かありましたから、戦争というのはどうしても体が表面に出てきますね。戦争の場合に出てくる体は、個人という意味ではないですが、むしろ集団ですね。そこである程度体が戻りますが、終戦後になってから、すっかり戦争がなくなって、ずっと江戸の延長の上にものを考えている。そこでは、できれば死体というものがない方が望ましい。ですから、すぐに片づけて火葬してしまう。
 
奈良:  また体というものと仏教とが、どう関わるかというのは、いろんな面からまたいろいろとお話を伺うことになると思うんですが、そうしますと、江戸期以前には、まだ死体というものから逃げずに、こう死体と直面すると言いますか、そうした文化はやっぱりあったわけなんですね。
 
養老:  それはまさしく仏教に出てまいりますね。例えば鎌倉時代の「九相図(くそうず)(九相詩絵巻(くそうしえまき))」というものがございますけれども、そういうものには死体が次第に変化していく。「腐っていく」と、一般には簡単に言いますが、そして最後に白骨になって、バラバラになっていく。そういう段階を九つに分けて絵に描いているわけです。この絵は、実は想像図ではないわけです。私どもが見ますと、非常に正確に描かれている。ある面で正確に描かれている。ですから、これは実写(じっしゃ)である、ということがわかります。「実写」というのは、つまり実際にこういう光景を見て、そしてそれを絵描きさんが絵に描いているんだな、ということがわかります。この「新死相(しんしそう)」というのは、亡くなられたばかりの絵です。まず最初に生きている若い女の人が出ましたけれども、これが普通の描き方で、そして最初に死んだ人が出ます。そして、これは「肪脹相(ぼうちょうそう)」と書いてありますが、こういう途中の段階をいくつか描いて、全体として数合わせみたいにして、九つに表してありますが、それで「九相」と申しますが、これはある程度腐敗して、ガスが溜まって、お腹が膨らんで、全体が黒ずんできている、という姿が描かれている。こういうものを一枚の絵に描いた「六道絵(ろくどうえ)」というものもございます。こういう絵というのを、今、私が講義とか講演などにお話しても、ご存じない方が割合多いんですね。日本の伝統的な絵であるにも拘わらず、しまってあって出てこない、という。



 
奈良:  やはりおぞましいというので、むしろ目を背(そむ)けてしまうというんですかね。これはそうしますと、最後に近い方の「白骨相(はっこつそう)」ですか。
 
養老:  そうですね。髪の毛が残って、そして骨が繋がって―この骨の描き方なんかは、同時代のヨーロッパの解剖図なんかと比べますと、非常にリアルで正確です。ですから、こういう目を鎌倉時代の人はもっていた、ということがわかります。死体を見る目、と言いますか。
 
奈良:  普通ですと、悲惨な変化ですから、目を背けがちなんですけれども、何かちょっと白骨になっても、足の形などが前とそっくり同じ形で、ほんとにそれなりに見つめながら描いているんですね。実はこの九相図というのは、日本だけではございませんで、実はインド以来仏教の方であるんですね。で、古い原始仏典の中にも、それのいわば先駆けといったようなものがございますし、それからスリランカとか、ビルマとか、ラオスとか、タイの、いわばテーラヴァーダ仏教、そちらの方でも特に修行僧が、そうした死体がだんだんと腐乱しながら白骨に変わっていく。そうしたものを一つの修行と言いますか、瞑想の対象として、それを観想する。そんなような例がございまして、これはたまたま先生の方からお話が出ましたものですから、インドの仏典の中に、例えばこんなような表現があるんですね。これは『スッパニパータ』と申しますから、インドの原始仏典の中でも一番古層―古い方に属するんですけれども、人間の体というものが如何に清らかでないものかと、不浄なものかというんで、体の中のいろいろな粘液とか内臓とかを並べたり、「九つの孔からは、つねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、鼻からは鼻汁」云々などというのが出ましたり、「頭蓋骨は空っぽで、脳髄にみちている」などとか、「身体が死んで臥すときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。犬や野狐や狼や虫類がこれをくらい、烏や鷲やその他の生きものがこれを啄む」。こんなようなことを延々と書きながら、人間の体というものに執着することの愚かさを、盛んに修行者が言い聞かせていったんですね。ですからそういう意味で、死とか、あるいは死体というものと真っ正面からぶつかっていく、という伝統がやはり仏教にあるわけですね。
 
養老:  今お読みになった部分ですが、私は感じるのは、「死体を不浄なものと見る」という考え方ですね。それと一緒にですね、そういうものが不浄というだけではなくて、何か人生と言いますかね、その人が生きてきたということを象徴するようなものとして、決して上手く言えないんですが、「悪く取らない」といいますかね、「汚いものとして取らない」という考え方も同時にあった、と思います。それで、例えば『方丈記(ほうじょうき)』にですね―ちょうど『方丈記』は、この九相詩(くそうし)に当たる時代の作品だと思いますが、『方丈記』の中に、仁和寺の隆暁(りゅうぎょう)という偉いお坊さんが、当時は京都の街が実は死人に充ちているわけですね。それで都の空気がその死体の匂いで臭いという記述がありまして、そして隆暁(りゅうぎょう)法印(平安後期-鎌倉時代の僧:1135-1206)というお坊さんが、死人を成仏させるために、額に「阿」の字を書いていく、という記述がありまして、そしてその数、左京だけで四万二千三百という。つまり四万二千三百の死体がそのまま放置されている。そういう時に、「阿」の字を書いていくというような作業を考えますと、私はそれが当時の仏教家をどうしても否定的に取れないわけですね。非常に温かい心と言いますか、なんとかこういう人たちを救ってあげたい。たとい死んでいてもですね。そういう気持で「阿」の字を書いていく、と。決して気持のいい作業ではないだろうと思いますが、そういうところが、私は、例えば『方丈記』を読む時に、この「九相詩(九相図)というようなものを挿絵としてお読みになったらどうですか」と言うんですね。今の人が『方丈記』を読みますと、その実感が伝わってこないだろう、という感じがします。
 
奈良:  そうですね。文献を文献として読みますと、なかなか文献の背後にある事実というものが、イメージとして出てこない。非常によくそういうことがあるわけで、確かにそうだな、と思いますですね。そういう中世の出家者という人たちの、これは死とか、その死者を弔うとか、あるいは哀れに思うとか、何かしてあげなければならん、ということが、単なる観念でなくて、現に目の前にそういうふうに死体がゴロゴロしているようなところですと、大変実感をもって、そうした死者に対するご供養とか、あるいは死というものに対する受け取り方がリアルなものだったでしょうね。
 
養老:  それでちょっと話がずれますが、「生死」のことですね。今私が申し上げた、例えば隆暁法印のやったことが自分に直接関わりのない人たちに対する供養と言いますかね、そういうことなんですね。で、私どもは、日常に解剖の方で経験するのは、亡くなられた方とその遺族の方、それとその解剖を見る、あるいはやる第三者と言いますか―学生ですね。それで、死の定義と言いますか、「死というものがどういうものか」というのを議論すれば、これは非常に長い話になるかと思いますけれども、一つの考え方は、死にいくつか種類がある、と。自分の死というものを考えますと、これ経験できませんので(笑い)、具体的に死んだらもうわからないですから。そうすると、これはない。それから自分とは関係ない人が死んでいる。これは解剖がそうですけども。つまり学生が、解剖のために遺体を見た時に、これは自分とは関係ない人だ、というふうに思う。問題は、生前に知っていた方の死体というのがあるわけですね。これをアリイスという人は、「一人称(俺)」「二人称(お前、貴様)」「 三人称(複数、あいつら)」の死と呼ぶんですけれども、それを死体に応用しますと、実は「一人称の死体」というのはない。つまり私が死んでいく―落語ではありますが―それはない。「三人称の死体」というのは、これは確かにあります。しかし今の日本で存在しているのは、私は、「二人称の死体」だけではなかろうか、という気がします。つまり「死体見たことありますか?」と聞きますと、「おばあさんが亡くなった」とか、「親が死んだ時に」とか、そうおっしゃるわけです。私は、それは死体じゃないんじゃないか、と思うんですね。まだ生きている、と。
 
奈良:  医学的には亡くなっていても、
 
養老:  「頭では死んだ」というふうに納得していても、気持と言いますか、感情といいますか、なんか心の奥底では死んだという気持をもっていないんじゃないか、と。
 
奈良:  そうだろうと思いますね。ちょっと話を挟むようですけれども、先日新聞を読んでおりましたら、これは人様にもいろいろ言われて、話し合ったことがあるんですけれども、「交差点に車が飛び込んできて、子どもさんが亡くなった。おばあちゃんがそこへ駆け付けてもう既に亡くなったお孫さんを抱きかかえながら、〝お前は死んでいない〟と叫んでいる」という。ごく素直にわかる一つの心情ですわね。
 
養老:  まったくそうなんです。つまりそこに誰かが倒れている。死んでいるんじゃないかと、パッとわかる。そうすると、他人だとパッと逃げます、反応としては。しかしそれが親なり子どもなり兄弟なり、そういう人たちだと気が付いた途端にサッとよって来ますね。そこでもう行動が百八十度違ってくるわけですね。ということは、特に日本の場合だと、知っている人―これ「第二人称」と言われるわけですね―「おれ、お前」という関係ですが、そういう関係で成り立っている人の死体というのは、私は、「生きているんじゃないか」と思う。そうして、そうした死体がもし生きているとしますと、それ以外に、そういう関係のまったくない人たちの死体は「三人称の死体」ということになって、これはどっちかというと、二人称から見れば冷たい扱いということに当然なります。それで今、隆暁法印の話をちょっと出したんですが、四万二千三百の親戚がいるわけないんで、これは第三者。不思議なことに、そういう酷い時代には、そういった第三者に対する温かい扱いというものが非常に目立ってくるわけですね。今の時代は、むしろずっとそれが小さくなっていって、死体として存在するものがほとんどなくなって、そして第二人称の死体だけがあって、これは生きているものとして扱われる、と。そういうふうになってきたように思うんですね。
 
奈良:  そうでしょうね。同時に、今の死体がゴロゴロしていたような中世の、そうしたことを考えた時に、やはり先生のおっしゃる「第三人称の死」に対しても、それなりの感慨が当時の出家者はもっていたでしょうし、同時にそれがかえって第一人称の自分の死というものに対してどう対処するかという。仏教というものは、所詮(しょせん)生きている人間が如何に生きていくか、という世界でありますから、あちらに常に死というものを踏まえながら、生きていく方にもかえってきている。そんなことから、例えば九相図に致しましても、昔から九相図に対するいろいろな詩が書かれているわけですね。これはいろいろな方が九相図に関する一つの詩と言いますか、一つの文学ジャンルをなしているかと思いますけれども、例えば空海作と伝えられている九相詩とか、あるいは蘇東坡(そとうば)が作ったんだと伝承されております九相詩とか、こんなようなものが残っておりまして、実はちょっと意外にも見えるんですけれども、江戸時代のあの良寛にもそうした九相詩に関する一つの死体が九相のいろいろと白骨にまでなり、お墓が造られていくまでの一つひとつに詩を詠っておりますんですね。他の方が、非常に即物的なんですけれども、良寛さんの場合には心象的な一つの世界と申しますか、一、二用意がありますんでご紹介をしてみたいと思うんです。これは先ほど写真が出ました「新死相」死んですぐの図に対するものでありますけれども、
 
 新死相
緑?如絲情悉灰 (緑?(りょくがん)糸の如く情も悉(ことごと)く灰)
蛾眉粉脂委塵埃 (蛾眉(がび)も粉脂(ふんし)も塵埃(じんあい)に委(まか)す)
遊魂得把長縄繋 (遊魂(ゆうこん)を把(と)り得て長縄(ちょうじょう)に繋(つな)ぐ)
大地無人慟哭来 (大地人の慟哭(どうこく)し来るなし)
 
先ほどの華やかに生き生きした女性が亡くなって、こう大地に臥している。その辺の状況をお考え頂きたいと思うんですが、黒々とした緑の黒髪がすっかり生気を失って、糸のように力がなくなっている。心も灰のように冷たくなっている。美しかった眉も、白粉、紅などで飾られた顔も、今は埃がたかっても拭(ぬぐ)うこともなく、それにまみれていく。おそらく体から抜け出た霊魂を地獄から来た使いの者が、昔からの言い伝えに従って、何か縄に繋いで連れて行ってしまった。人が亡くなっているということが、人の心を驚かせるもので、恐いもので、そこに来て涙を流し泣くものもいないのだ、と。まあ良寛さんと言いますと、大変子どもと一緒に終日(ひねもす)毬をついて遊び暮らしていた。そういう印象が強いんですけれども、やはり良寛さんにはこうして非常に厳しい仏教者としての修行、それから生き方、そして目というものがあるんですね。もう一つご紹介致しましょう。これは確か九相図の七番目だと思いますけれども、「白骨相」。絵の方はそこから骨だらけになって、先ほど先生が解剖学的な図としては大変正確なものだとおっしゃった、そこだと思いますが、
 
 
  白骨相
虚弓雁落洞庭濱 (虚弓(こきゅう)より雁は落(くだ)る洞庭(どうてい)の浜(ほとり))
七十二峰懸月輪 (七十二峰月輪(げつりん)を懸(か)く)
影在波心雲不住 (影波心(はしん)にあり 雲住(とどま)らず)
風前誰見舊時人 (風前に誰れか旧時の人を見ん)
 
雁が列をなして洞庭湖の方にやってくる。それは見上げると大きな大空からこちらに下りて来るようにも見える。洞庭湖の周りの七十二のたくさんある峰峰、そのいずれを見ても、それぞれの見方から見た時に、山に懸かる月影というものは大変美しい。洞庭湖にも月影が映っている。そこを雲が行ったり来たりしている。こうした世界がありながら、風が吹いてくると、月影が乱れ消えてしまう。同じように、アッという間にこう生き生きしていた命というものが失われて、こうして白骨になってくる。目の前にある白骨というものを見て、どんな人だったのか、どんな生活をしていたのか、どんな縁者がいたのか、そんなような思いをしてくれる人さえいない。そういうまことに無常な移り変わりというものを、良寛さんは単に図についての説明をしているというよりも、むしろその図に触発された良寛さん自身の心象の詩ですわね。こうしたことが、一つの死とか、死者、死体、そうしたものと、日本の仏教者がどう関わってきたか、ということの一つの例かと思いますんですけれども。
 
養老:  ちょっと誤解のないように申しますと、最初に私は、日本の現在のような「死体をいわば隠す」と言いますか、「あまり見ないようにする」というか、江戸の初めに始まった。今、良寛さんの例が出たんですが、これはその時に申しましたけども、二つの考え方が常にあると思うんですね、人の中に。どんな社会もそういう二つの面をもっておりまして、誰だってそういう九相詩のようなものは見たくないという気持が一方にあります。他方には、そういうものを見ないとわからない、と言いますか、あるところまで考えが広がない、という面がある。その二つがいつでも、表になったり、裏になったりして、出てくるように思います。今初めて私、教えて頂いたんですが、江戸になってもお坊さんの中に、そういうふうな九相図を見るような、そういうふうな考え方がいきているということで。これは実際に私ども仕事の方でもなんで、江戸の時代というのが始まって百年経ちますと、解剖ということが始まります。解剖というと、みなさん普通は杉田玄白(すぎたげんぱく)をすぐお考えになるんですが、実は杉田玄白という人は、解剖というものが日本に広まっていって、江戸で解剖が始まるわけですが、『ターヘル・アナトミア』という本を懐に入れて見に行った人です。ですから、その最初に公に許されて解剖するのは、京都で始まることであって、その十七年前に山脇東洋(やまわきとうよう)(江戸時代の医学者。実験医学先駆者の一人。1754年、京都所司代の許可を得て死刑囚の解剖、観察を行う:1706-1762)という人が京都で初めて解剖を日本でやった。
 
奈良:  普通は杉田玄白というと、私ども素人でも昔覚えた名前、記憶があるんですよ。『ターヘル・アナトミア』というんですが、それの草分けが杉田玄白かと思っておりましたが、
 
養老:  そうではない。それ以前に「官許の解剖」と言っているんですが、官が許した解剖を、それは山脇東洋が京都で最初にする。そしてそれが行われますと、日本中に解剖ということがサァッと広まっていきます。それが江戸にやってきて、そこへ杉田玄白が登場する、と。それじゃ山脇東洋という人はどういう人かというと、普通は解剖と言いますと、みなさん蘭学というふうにお考えになるわけですが、勿論当時のことですから漢方で、医者として勉強しますね。そうすると、江戸時代に解剖するようなことが、どうして漢方医の中から起こってくるか、という疑問は当然生ずるわけです。あまり私は、そういう説明は聞いたことがないように思う。西洋の影響として考えれば、楽な解釈であります。しかし良寛さんに見るように、やっぱり江戸という時代は、どちらかというと、心を優先して、体というものを、さっきから申し上げたように隠していた時代。そうしますと、一番困るのは誰か、というと医者なんですね。医者というものはどうしても体を見なければならん。そうすると、何がその時の文化の中から、どういう大事なものが落ちているか、というのを感じざるを得ない職業だったように思うんですね。そうして漢方医の中から、「古方医」と言いますが、「古方」というのは、これは漢方の古典に戻る、という主張に近いんですが、同時に「親試(しんし)実験」親しく試みて、実際に経験せよ、というモットーをもってくる。そういう人たちが解剖を始める。ですから江戸の人たちが身体を無視すると言っても、それはみんながみんなそうしたという意味ではないので、必ず人というのは両方のものをもっているわけですから、それがいろんな形で身体が現れてまいります。それでその江戸の身体というのは、解剖の歴史の中に登場してくるんじゃないかな、と。今拝見した良寛なんかもそうかも知れません。こういう詩を書くということは、そういうふうなものが欠けているということを強く感じられたんじゃないでしょうか。
 
奈良:  そうかも知れませんね。と言いますのは、こういうふうにいうと非常に言い過ぎになるかも知れませんですけれども、私どもの方の分野から申しますと、鎌倉期に、いわゆる鎌倉仏教というものが起こりまして、ほんとにキラキラした仏教というものが説き出されてくるわけですね。やはり江戸期というものが、ある意味では大変沈滞した期間である、と言えるかと思うんで、例えば身体というものに関して、今先生は、「二つの面があるんじゃないか」とおっしゃいました。それとそっくり重なるわけじゃないんですけども、私どもの方から見ますと、身体というものがまことに大切なんでありまして、よく宗教とか仏教は、「心の世界だ」というんですけど、心だけでは、仏教で成り立たないと思うんで、むしろ体がなかったら、実は仏教というものも成り立たないんじゃないかとさえ思うんですね。例えばいろんな面からそれは言えると思うんです。例えば私、最近つくづく思っておりますのは、インドの釈尊―お釈迦さんなんですが、お釈迦さんがよく六年苦行して、修行した。しかし悟りが開かれなかったので、苦行の意味のなきことを知って、苦行を捨てた。そして体を河で洗って、そして菩提樹の下に行って、坐禅をして悟りを開いたんだ、とこういうんですけど、なんかそういう言い方をしますと、釈尊の六年間のあの激しい難行苦行の時代というものが、如何にも意味がなくって、お釈迦さんは、回り道しちゃったんです、って言わんがばかりの言い方になるんですね。私はそうじゃないと思うんですね。いろいろ仏典を見てまいりますと、当時の出家沙門として、ほんとに家を出た生活をしながら、例えば死体がゴロゴロ転がっているような墓場で瞑想したり、坐禅をしたり、そこで寝たりしているんですね。あるいは誰も人の居ない林の中で一人暗黒の恐さに耐えながら夜を過ごす、なんていうのもございまして、やはり現代と違いまして、電気なんかも何にもないところでございますし、月明かり星明かりがあればまだしも、星明かりさえないなんて言ったらほんとに真っ暗なんです。私は、インドにおりました時に、何回か経験している。ほんとに不安定なものでございましてね、まったく見えない。そんなところをこう歩いていく。自分がどこにいるか知っていますから恐くないんですけれども、そんなところへ風がごぉっと吹いてくるなんていうと、やっぱり恐いんですね。ましてや、それが人里さなれたジャングルの中で、危険な動物などもうろつき回っているところでありましょうし、そんなようなところで生活をしながら修行をしている。やはりこれはある意味では自我欲望というものを、とことんまで抑え込んでいく一つの体からする修行だろうと思うんですね。そうしたことをやり抜いてきたからこそ、悟りの智慧こそ出ませんでしたけれども、この自我というものをそこで完全に抑えきっていく修行があった。それがあったからこそ、菩提樹の下でのお悟りがあり得たんだ、というふうに、私は思いますし、その後のインド、中国、日本の、いろいろな修行者の事績というものを見ましても、確かにいろいろな行法がありますけれども、その行法と体の動きというものと、やはり密接に相応しているわけなんで、その辺もう少し重要なものとして見ていかないと誤るのではないのかなという気がするんですね。ところが、江戸時代になりますと、先生のおっしゃるように、非常に心ばっかしが重視されて、体が軽んじられるという。ある意味では日本の仏教というものが、江戸期になって観念的になりすぎてきちゃった。もっと言葉を飾らないで言わせて頂くならば、非常に生気のない、かなりレベルを落としてしまった仏教になってしまった一面があるという、そんなような面があるように思うんですね。
 
養老:  ちょっと補足さして頂きますと、江戸になって何が起こったかということですが、これは私も非常に不思議だなと思うことがありますが、何よりもまず表面に出たのは、「平和」という観念じゃなかったか、と思うんですね、戦国を経てきますから。戦国時代というのは、どういう時代か、と考えてみますと、これは「個人優先」の時代ですね。ですから、短くいうために、戦国の歴史を書こうとしたら、個人の名前抜けないんだろう、と思うんです。上杉謙信、武田信玄、織田信長、徳川家康、というふうに名前を書かないと、戦国からの歴史が書けない。ということは、個人が非常に出てくる。ところが、みなさんあまり意識しておられないんですが、「個人というのは何か」と考えますと、これは身体の上に成り立っているんですね。そんなこと当たり前じゃないか、とお考えになる人と、一体何を言っているんだと、お考えになる人があるかも知れませんけども、日本語ということを考えるとよくわかるんですが、日本語というのは、何も個人の上に載っているわけじゃない。これは日本人という集団がない限り成り立たないものであって、そういうものを我々は文化とか、伝統とか、と言います。ところが戦国の歴史は、個人の名前を出さないと書けない、ということは、それは実はかなりの部分が身体の上に成り立っているということなんですね。そして、それを後の世の人は何と呼ぶかというと、「乱世」と呼ぶわけですね。日本では乱世というのが、極端に言いますと、鎌倉時代辺りから始まっている。つまり平安の貴族の社会というものが、侍の登場によって、鎌倉時代から身体がずっと表面に出てまいります。これはもう「腹が減っては戦ができない」というのを、私は、「身体の時代」というふうに簡単にいうんですが、身体が表面に出てくると、何が起こるか、というと、「個人差」というのが非常に強く出てまいりますので、これは人間の纏まりが当然悪くなります。これをやりますと、平和な時代の人が、乱世というふうな世界が現れてくるので、私はある種の知恵として、そういうものを抑えていた、と思うんですね。特に江戸になって、それを徹底的に抑えていた。ですから、それを典型的に表す人が、これは台詞ですけれども、私はよく言うんですが、「利休は死すとも茶の湯は死せず」という。利休という肉体は滅びても、茶の湯という伝統は残る、という。その考え方が非常にそれ以降ですね、つまり江戸の人の考え方をよく表しているんじゃないか。ですから忠臣蔵を見た時に、最後に四十七士が整然と腹を切ることになるわけですね。それは何をしているのか、というと、外国人が見れば生命を休止しているという見方になるでしょうが、私が見ますと、あれは肉体というものを認めていない。「気持を残している」というふうに感じるんですね。「七生報国(しちしょうほうこく)」ということが言われる。それ戦争までズーッと続いた一つの考え方になっているわけですけれども、その基本には、どちらか言うと「身体を無視して、心というものを重視する」。これは江戸の思想であろう、と。それがいまだに私は続いている面がかなりあるんじゃないか、と。
 
奈良:  そうしますと、一つの社会とか共同体というものの中に、個人というものがある意味では埋没していってしまう。埋没していってしまうということは、当然個人の名前が消えるわけです。ということは、体無視と、そこで通じているものである、と。
 
養老:  今仏教に関しておっしゃることですね。例えば鎌倉時代に親鸞とか日蓮とか道元、非常に性格のはっきりした仏教者が出てまいりますね。ところが、江戸ではなかなかそういうことが難しい、というのが、個人にならないというところにあるような気がするんですね。
 
奈良:  なるほど。仏教というのは一人ひとりの所詮生き方でありますし、修行者というものの事績というものは、基本的には個人の境涯とか境遇とか修行ということで見ていくわけですが、なるほど、教団史という面から見ますと、確かにその中に個が埋もれてしまう、ということはあるんですね。そうした面から江戸期の教団史というものをもう一度見直して見ても面白いかなと、今お話を伺いながら実は思っているんですけれども。
 
養老:  日本人の「集団主義」と言われるようなものが外人から見るとあるわけですけれども、そういうものもおそらく私は非常に特徴的な、江戸時代から数えて四百年の文化に属するものだろう、と思うんです。昔からさっき申し上げたように、そうだったかというと、そうでない要素というのを必ずもっているわけでして。
 
奈良:  そうでしょうね。これは先生も、どこかでちょっとお書きになっていたように思うんですけれども、例えば江戸期以前は、やはり体というものはとても大切だった、と思うんですね。先ほど釈尊の修行のことを、ちょっと申し上げたんですけれども、例えば鎌倉期の道元禅師という方がおられるわけですけれども、道元禅師―禅の方でありますから、当然悟りということがあるし、私は、「悟りというのは一つの自覚だ」と思っているんですけれども、先生の方の分野でいくと、「自覚」というのはあくまでも「心の働きに過ぎない」と思うんですね。ただ私、「自覚」というのは、「自分が真実というものに包まれている。それを仏のいのちに生かされている」と言ってもいいし、「真実の働き、仏性の働きに生かされている自分に気が付く」と言ってもいいと思うんですけれども、これが実は単なる認識の対象じゃないと思うんですね。単なる認識の対象ならば、「わかったよ」と言うんで、それでお終いなんですけれども、仏教のそうした高い宗教的境涯を、恋愛に比べるとちょっとおかしいかも知れないんですけれども、例えばA君がいて、B子さんがいて、B子さんがA君を好きになりますでしょ。するとB子さん一生懸命A君好きなんですけれども、B子さんの恋の気持、恋心というものは、A君にとっては認識されていないんですから、ないに等しいと思うんですね。ところが誰かが、B子さんはA君、あなたが好きなんだよ、と言った時に、A君はそのB子さんの愛を知識としては知るんですけれども、やはり自分の自覚内容になっていないから、A君の生き方の中には存在しないで、やっぱり同じだろう、と思う。ところがなにかの関係で、A君とB子さんが意気投合してくる。双方に愛というものを確かめ合い、愛情が交流してきますと、やはり今度はA君の中にB子さんの愛も、自分の愛というものも、自分の自覚の中に現実化してくると思うんですね。そうなった時に、これいわゆる対象として単に認識したというものではなくて、自覚というものは、そうなった時に必然的にA君とB子さんの好意というものが、その恋愛に応じた行動として出てくるわけですから、やはりその愛情の自覚というものと、それから体の動きというものは切り離せない、と思うんですね。妙な譬えなんですけれども、お悟り、例えば道元禅師の場合にも、やはり仏法というものを自覚される。自覚の中に仏法が初めて現実化されてくる。そうすると、その現実の中に当然仏法に生かされている自覚は、道元禅師の行為として、いろんな形で出てくるわけで、それが典型的に出てくるのが坐禅であろう、と思いますし、坐禅を中核とする修行の生活だと思うし、おそらくお念仏でも、御題目でも、あるいは密教の方でも、そうした関係は同じじゃないかと思うんですね。
 
養老:  それはおっしゃる通りだと思うんですね。さっき心とおっしゃいました。私どもはどう考えているか、というと、それは、例えば道元の「身心(しんしん)」と書く時に、「身」を先にもってくるんですね。今、「しんしん」と書かせたら、おそらく「心」を先にもってくると思う。それは現在の私どもの考え方で。ですからやっぱり心が頭に載っているわけですね。しかし日本人というのは、私は本音を喩えていきますと、みなさん身心一如じゃないかと。ただ、江戸以降、心―心の方の心が優先している。で、身の方がちょっと下に隠れている、という関係はありますけれども、しかし古くから身と心、さっき「身心一如」というふうに最初おっしゃいましたけれども、そういうふうなことというのは、最初からやっぱり宗教なら宗教、あるいは人生如何に生きるか、という時の一つの大事な方法論と言っていいか、目的と言ったらいいかですね、そういうものであったんじゃないかと思います。それでその両者の関係というものを西洋の考え方ですと、割合綺麗に分けるんですが、どうも私は、日本人みんなというとおかしいですが―いろんな方の書いたものとかなんかを見てみますと、その両方を綺麗に分けるという考え方は、日本には本来ないような気がするんですね。
 
奈良:  そうですね。日本人の文化としても、あまり綺麗に「右だ左だ」「白だ黒だ」と切らない日本人の一つの特性というものがございますし、よく言われるように、欧米の「主観、客観をはっきり分けちゃう」考え方に対して、東洋の考え方が非常に「総括的だ」ということはよく言われますね。同時に、もう少し宗教的なレベルでいうならば、この「身と心」体と心というのは、やはり言葉としては分けて当然いいわけですよね。体は体だし、心は心なんですから。ただそれがそうした宗教的な生き方ということになってくると、二つのものがてんでんばらばらなものじゃなくて、それが一つのものとして相連関しながら動いていく。むしろこの意味では、体と心というものが別れている一つの二元論を、一つに纏めていく。いわば身心二元論というものをどう克服するか、ということが、宗教というものの一つの大きなテーマになるんじゃないか、と思うんですけれどもね。
 
養老:  それが不思議なことにですね、どちらかというと、ごく一般的な考え方をしますと、宗教へ入っていくと、心が体から抜けていって、ここに残っているのは抜け殻と。つまり身体というのは、抜け殻と。ですから我々は抜け殻を扱わして頂いているという、そういう感じになる。そこのところは、大変長い話になりますから、やっぱり心と体というものをどういうふうに考えるか、というのも、もう一つ非常に大事な問題である、と思います。それで両方切るというのは―言葉ですが、一言だけ申し上げたいのは、「言葉」というのは、もともと「切るという性質をもっている」ということは、解剖をやっているとよくわかる。つまり腕とか、頭とか、人か、何気なく言っていますけれども、それじゃ「足を切って持って来い」と言ったら、どこから切るか。必ず境が問題になる。「その境は実はないんだ」ということがわかるわけですね。「どこから先が足だ」ということは、よく考えてみると言えない。それで何故我々は、「足だ」と平気で言っているかというと、それは言葉が「ものを切る性質をもっているから」であって、逆にいうと、ものを切れなきゃ言葉というものは成り立たない。ですから同じ一つのもの、つまり人間なら人間というものを、頭にしたり、手にしたり、足にしたり、心にしたり、体にしたりする。心と体というのは、非常に違うじゃないか、とおっしゃるかも知れませんけども、それは私は非常に端的にいうと、我々の頭の中に、「心のようなものを考える部分」と、「体のようなものを考える部分」が、どうしても分かれてしまうから、人間が二つに見えちゃうんだ、という。
 
奈良:  言葉の不自由さがありますですね。先生は、今、「足はどこだ、ということがよくわからない」と言われましたが、「生と死」の問題も同じじゃございませんか。
 
養老:  まったくそうだと思います。
 
奈良:  一体死というのは、「死という瞬間があるのか、ないのか」。その辺どうなんでございますか。
 
養老:  私は、「死という瞬間はない」という考え方です。
 
奈良:  「いつ死んだ」ということは言えない、という。
 
養老:  はい。ただ死という瞬間は、「社会的に決めている」という。
 
奈良:  よくわかりますですね、なるほど。
 
養老:  ですからこれは個人にとって、死の瞬間があるのじゃなくて、社会的には、「その辺まできたら、死んだ、と決めよう」と、そういう決め方だと思いますね。
 
奈良:  実は私どもの方の学会で、今の脳死と臓器移植の研究委員会ができまして、私も関わっていたんですね。その時に多くの人から出てきた意見が、「脳死というものをどう受け取るのか」という。そうしますと、いろんな意見が出まして、今までは「心臓死」なんですけども、心臓が止まって、「亡くなられました」と宣告されても、私ども経験から、髭は伸びたり、爪が伸びたり、頭髪が伸びたりしますですね。そうすると、一体「心臓死」で死んでしまったのに、そちらがまだ生きているではないか、という。そうすると今度は「脳死」という問題が、段階とすれば、おそらく「心臓死」の前にくるんでしょうけれども、やはり「臓器移植」というものを前提とした一つの約束事として、「脳死」というのが説かれているのかな、と。そうなると、一体私どもにとって、「脳死」というものが、不可逆的に死にいくものなのか、戻りうるのか。その辺はどうも私どもお医者さんじゃありませんのでわからないんで。
 
養老:  そういう議論の時に、みなさんが落としておられる点が一つありまして、「心臓死」と「脳死」の関係、裏返しますと、じゃ「心臓死」の時の脳はどうなっているか、という問題が起こってくる。これは勿論のこと死んでいません。
 
奈良:  死んでいませんか?そうですか。
 
養老:  つまり「心臓が止まった瞬間に、脳が死んでいるか」と言ったら、脳がピンピンしている人もたくさんいる。それじゃ「脳だけ生かしたら生きていることになるか」という逆の問題が起こってくる。これは非常に悲惨な状態が起こるんですね、脳だけ生きている人間というのは。それは自分でご想像なさったらよろしいんで。
 
奈良:  そうしますと、先生の方のお立場から、間違いなしに「死だ」というのは、どこにありますんですか。
 
養老:  ですからまさに九相詩に戻ってしまうんですね。人が死んでいく過程というのがあって、それはどこで切るということはできない。だから比喩的によく言いますが、「生きながら死んでいるような状態になる」ということも当然ある。それは裏返して言えば、「生とは何か」という問題になるわけで、つまり私の考えでは、死というのは生の最後の瞬間でありますから、言ってみれば、それは「生に完全に依存しているものであって、主として独立に存在しているものじゃない」と。「生死」というふうにいうとよく間違えるんですが、生と死が同じ重さをもって、秤のこっち側と秤のこっち側に載っていると思いますけれども、よくお考えになると、「死の瞬間しかない。あったとしても。内容はないじゃないか」と、私は申し上げるんですね。生というのは、しかし生まれ出てから死ぬまでの内容が非常に長い。それと死というものを、何で一緒にするんだ、並べるんだ、と。
 
奈良:  そうでございますか。いろいろやはり解剖学と言いますか、自然科学と言いますか、そちらの方から体の方を通してくる人間の生き死にの問題。それから私ども宗教関係から見てくる生き死にというものが、いろいろなところで見方が違うだけに面白いんですけれども、しかし意外に考え方がオーバーラップしてくるところも多いかと思いますし、今度ともいろいろその辺、少し自然科学と宗教というものが話し合っていく必要があるんじゃないかなと、そんな気も実はしておりまして、やはり今日のテーマが「からだ」ということなんですが、先ほどちょっと道元禅師に関して、つまり禅の方に関して、やはり坐禅なり、坐禅を中心とする生活を行っていくという行為が、実は悟りという自覚を働かせていく。その体による、つまり生きていくということがなかったら、真実というものは現実化してこないんだ、という。そうしたことを、ちょっと申し上げたんですが、なんか先生は、浄土のことに関しても、なんか現実の問題だ、ということをお書きになっておられる。大変面白かったんですが、それをちょっとご紹介頂きたいんですが。
 
養老:  「浄土」という、宗教のそういう観念というのを、ある程度素人なりに調べてみますと、科学で考えていることに非常に似てくるんですね。浄土というのは、いろんな考え方ができますが、日本で例えば面白いのは、一休さんの浄土に関する考え方ですね。「浄土は自分の体だ」という。よく「西方十万億土」という。「十万億」って何かというと、髪の毛から爪から何からですね、人間の構成している部分というのを考えていくと、当時の人は沢山でできていると思ったんですね。やっぱりミクロコスモス(小世界、小宇宙)というぐらいですから。それでそれが十万億ある、と。だから「我々の体が実は浄土なんだ」というふうに。これはほとんど冗談に聞こえるかも知れませんが、それを一つの例としてですね。
 
奈良:  実は先生のご本から、私、あんまり面白いんで写してきたのがありますけれども、一休さんが、「阿弥陀とは南(皆身(みなみ))にあるを知らずして、西を願うははかなかりけり」というんですね。この問題は、西方浄土ということがある。それに対して南というのを、みんなの体と。要するに仏法の生き方、これは禅であり、お念仏であり、とにかく心の単なる観念の世界ではなくて、体というものを踏まえながら、結局体を踏まえるということは、現実の毎日の生活を生き抜いていくことに直結してくる問題であろうかと思うんですが、体と心、心と体、まだまだ問題があろうかと思うんですけれども、時間もないようでございまして、本日は先生、大変有り難うございました。
 



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