身体とは誰のものか
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身体とは誰のものか

2018年01月17日(水)9:59 PM

●身体は誰のものかではなぜ、人体(人身)を売買したり、改造したりすることが憚られるのでしょうか。これは「身体が誰のものか」という価値観に根ざすテーマです。
倫理的に「やり過ぎではないか」と感じます。宗教的には「神様に申し訳ない」という想いです。

現代日本の法律においては、「自傷行為」すなわち「自分で自分を傷つける行為」は合法です。「自殺」は違法です(その手助けも違法です)。
※他者の身体を傷つければ、「傷害罪」です。もし合意の上であればグレーゾーンです。

近代以前は、「自分の体」は「神様のもの」でした。近代では「家族のもの」でした。現代では「自分のもの」とされています。


現代では「自由意思」や「自己主張」といった価値観が重視されますので、「ある程度は、自分の好きにして下さい」「健康に問題があれば治療しましょう」というのが、現代社会の立場であり、クリニックの立場です。
すこしでも「キレイでいたい」という、美容目的での自己満足が、いわゆる「女心」です。これは現代になるまで、「過度な欲求」とされており、宗教的に禁止されていました。

キリスト教では、人間の身体は神様が創った神聖なものなので、人間がこれに手を加えることは禁じられていました。自殺が重罪である、という点では現代と同等ですが、堕胎(堕ろす)という行為については現代より厳しい基準でした。
また儒教では「身体髪膚…」に始まる、「親からもらった身体を大切にしなさい」という思想があります。

※「身体髪膚、これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始め也」
 身体は手足から毛髪、皮膚に至るまで親からもらったものだから、あえて傷つけてはいけません。それが親孝行です。


近代では宗教や保守的な価値観があり、また医療水準が低かったこともあり、身体改造は禁じられていました。人体は今より神聖なものだったのです。例えそれが、病気の治療目的であったとしても、外科は忌み嫌われていました(「老い」を治療するなどもっての他でした)。
※外科医師も社会的な地位は低く、ハサミを扱う床屋が外科医を兼務していたり、解剖学者であるダヴィンチは、当時は猟奇的な変態と認識されていました。現代の価値観では「天才」ですが、当時の価値観では「重罪人」です。


その後二度の世界大戦を経て、戦場から様々な解剖学と外科技術の原型が生まれます。大戦後にはテクノロジーの向上とともに、解剖と外科技術もその地位も向上しました。病気に対して、「手術」という治療の選択肢が豊富になり、「健康でいたい」という満足が叶うようになりました。
現代では、技術の恩恵は病気以外にも広がっています。「キレイでいたい」「老いたくない」という自己満足も、お金次第で叶うようになりました。
※価値観は人間社会が回るためのルールですから、時代とともに変化します。同時に倫理観など普遍的な価値観もあります(自殺=罪、など)。


人体に対する「野蛮」であった行為(興味)は、近代において「健康」のための行為(興味)として正当化されます。さらには個人主義の浸透とともに、「美容」「ファッション」「趣味」のための行為(興味)も正当化されるようになりました。

※「人体収集」や「人体売買」などは、それが興味本位であり趣味的であるために、悪趣味とされます。それが他者のものであればひどい冒涜ですが、自身のものではどうでしょう。
 自身の耳を切り落としてオークションで売った人は、ひどく悪趣味とされました。しかし「乳歯」や「へその緒」を記念に残しておく行為は、風習として容認されています。これらは受け手の価値観(認識)の問題によります。

※また扱う人体が自身か他者か、生体組織か死んだ組織かにおいて、以下のように分類されます。
人体改造: 生体組織に対して行う、自傷行為の延長である。
人体取引: 人体収集などが含まれる。組織の由来は自他を区別しない。コレクション目的では、死んだ人体組織であり、取引の対象となっている国と地域がある。
 輸血や臓器移植などの医療行為では、金銭的な取引は禁じられているが、医療的な取引は容認されている国と地域が多い。ヒトプラセンタは死んだ胎盤組織を粉末に加工したものであるが、美容目的に利用されている。
  

 



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